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2009.03.17
ある厳冬の日、難産で
ファームデザインズ物語
---------------------------------------------------- 北海道で牧場を始める物語 --------------------
ファームデザインズ社長 海野泰彦
1987年 牧場を始めた頃 傾いた牛舎と春にはドロドロになる未舗装の道

第1話 ある厳冬の牛舎にて
も、もう少しで子牛の頭の後ろに手が回る・・・自分の腕の太さを恨みつつ、肩のところまで母牛の子宮に突っ込んだ腕をさらに奥に入れようと試みる。 踏ん張りがきかない。−20℃近くまで冷え込んでいる厳冬の夜、コンクリートの床は凍ってつるつると滑る。 「あ、足、おさえて!」嫁さんに足を支えてもらって、何とか踏ん張ろうとするがうまくいかない。子牛の頭をまさぐる指がウニョウニョとむなしく子宮の中をまさぐる。「あ、あと少しなんだよなあ、くっそ〜〜」もうあと数センチで頭の後ろに指が回る。 そしたらあっちゃ向いてホイしてしまってる子牛の頭を、正常な位置に戻せる。ほんの数センチ。その数センチがなんとしても届かない。足の位置を変え、体の向きを変え、右手を左手に変えてのたうち回るが、届かない。 数センチが、遠い・・・。
「あ、除夜の鐘だ・・・」 途方に暮れて、腕を子宮に入れたままふと周りを見渡したとき 、心配そうに後ろでみている嫁さんの顔とともに、牛舎につけているラジオから、かすかに除夜の鐘の音が聞こえてきた。 「今年も終わるなあ、いろいろあったなあ・・・」 難産と格闘してはや30分が過ぎようとしていた。 外は−20℃。
そんな酷寒の夜、難産の牛の助産をすることになった。1987年の大晦日。私たち夫婦が牧場を始めてからまだ半年たったばかりの事だった。
今日は大晦日だし、さっさと仕事を終わらせて家で紅白歌合戦でもみながら年越しを・・・。あれ?あの牛、尻尾あげてソワソワ?うろうろ? カレンダーをみる。 予定日は1月7日。 ありゃあ、1週間も早く陣痛がきちゃったのかい、キミ。どう見ても陣痛だなあ、あれは。ああ、暖かいこたつが。テレビを見ながらミカンを食べる幸福な大晦日が・・・・・。まあ、経産牛(1度お産を経験している牛)だし、ほっとけば自分で生んでくれるでしょ。
なんて気軽に考えるときほど、問題が起きる。 すぐに分娩が始まるだろうと、乾草をたっぷり敷いたペンにいれてやる。母牛はしばらく不審そうにあちこちにおいをかぎまわり、ふかふかのわらのベッドを足でつんつんしてクッションを確認したりしてしばらく落ち着かない様子。私たちが買い取った離農跡地には古い牛舎が1棟あるだけで、お産をするための特別なエリアがなかった。仕方がないので牛舎の片隅に囲いを設け、そこに干し草をいっぱい敷き詰めて「分娩室」としていた。他の牛からも丸見えで、みんな「なになに? 何が始まるの?」というような調子で、物珍しそうに見に来るので、お産する母牛もなんだか落ち着かない。しばらくして安心安全を確認したのか、母牛はゆったりとわらの上に横たわった。
すぐに陣痛が強くなる。 横たわると腹圧が上がり、子牛が出ようとする動きが強くなるためだ。夕方の搾乳作業が終わる頃には、生んでしまっているだろうと、母牛に任せて搾乳作業に専念する。 夕方6時。 搾乳を終わらせ、さあ、生まれた子牛は雄かな雌かな、と楽しみにしながら母牛の元へ。 あれ?まだ? 結構時間がかかるねえ。どれどれ? 陰部をのぞき込むと膜のようなものがたれている。ブフォーーブフォーーーと母牛は苦しそうな息を吐いている。「破水はしたんだねえ。何で出てこない?」 逆子だったらイヤだから一応触診しておくか。
ー20℃だろうが何だろうが、ダウンジャケットを着たまま助産はできない。腕を肩までまくり上げなくてはならないから。 だから、えいや!っとパーカを脱ぎ捨て、薄着になる。 あまりの寒さに「うふふふふ」と声を出して笑い始める(マイナス20度なので・・・)すでに奥の歯がかちかち言い始める。 「ここは度胸の男一匹ーーー」と本人も意味不明の演歌風の歌を叫びながらシャツ一枚になる。 嫁さんが「はいはい、わかったから、何でもいいから早く脱いではじめてね」とあきれ顔で脱いだ服を受け取る。え?そんなこと言ってないって?(by、ヨメサン) イヤ、言ってた!あの顔はそういってた!
感染を防ぐために肩まであるビニールの使い捨て手袋をはめる。その上から細かい作業もできるように手術用のラテックスゴムの手袋も。お湯に消毒液を加えたもので丹念に消毒するが、水滴はあっという間に凍り始めようとする。母牛の様子を見ながらそっと子宮内に挿入。 牛の体温は平均39度程度。中はとっても暖かい。体は凍えるほど寒く、腕はぽかぽかと暖かい、変な感覚。
お、足に触れる、そこまできてるじゃない。足の向きは正常だし、こりゃ逆子でもないなあ。産道は? うん、十分に開いてる。何でこれで生まれてこない? 条件はそろって・・・る・・・・、 あれ? 子牛の頭は? 頭はどこ? 子牛の頭は、いずこへ?
いやな予感。まさか、奇形? ・・・どひゃあああ。初めての遭遇、未知との遭遇、しかも頭なしの大胆不敵な奇形? ああ、なんてスプラッターな・・・・・・。 うん? これなんだ? これなあああんだ? あ、耳だ。うん、きっと耳だ(自分に言い聞かせるように心で叫ぶ)。 耳の先には頭がある。あるに違いない! ぐぐっと手を奥に入れる。 すると母牛も子牛が生まれようとしていると勘違いして陣痛がきつくなる。イタタタタタ! 母牛の体と子牛の骨格に挟まれて手が押しつぶされそうになる。ググッ、グイグイ、アイタタタタタ。 陣痛と陣痛の合間をぬって、耳の先へと手を推し進める。あった!あったぞ、頭。
本来なら前足が2本そろって出てきて、頭はその上にちょんと乗っかるような形で産道を進んでくるのが正常なお産である。 でもこの子牛は何の拍子か頭だけコースから外れてしまったらしい。 頭だけ横に向き、足だけ産道に進んできたのだ。ただでさえ狭い産道。このままでは絶対に生まれない。 方法はただ一つ。 せっかく進んできてくれた子牛だけれど、いったん子宮の中に戻っていただいて、頭を引っ張りもどしてからあらためて産道へ同伴出勤してもらう必要がある。 言葉で言うのは簡単だけれど、この「いったんお引き取りいただく」というのが尋常じゃない。いったん陣痛が始まったら、子牛を押し戻そうとすればするほど、より強い陣痛で押し出されてくる。 押し戻す、押し出される。 すごい力。母は偉大だ。たちまち汗が噴き出す。 さっきまで凍えそうだった体は、ほっかほか。おまけに産道に締め付けられた腕には血が通わなくなり、力がだんだん入らなくなる。母牛の体力の消耗もあるし、時間との戦いだ。押し戻した隙にささっと隙間をぬって頭を持とうとするのだけれど、ぬるぬるしているのでとらえどころがない。何度も何度も失敗する。 あと数センチ腕が長ければ、もっと腕が細ければとどくんだけどなあ・・・剣道で鍛えちゃったからなあ、この腕。ああ、太くて短いこの腕が憎らしい・・・・。
と、その時、意を決したように母牛が立ち上がったのです。 陣痛でお腹痛い真っ最中だろうに。むくつけき男がふっとい腕を突っ込んでいる最中だというのに! おおっと、肩が脱臼する! と慌てて母牛の動きに合わせて一緒に立ち上がる。 母牛も必死、こっちも必死。 なんて無茶なことをするの!と怒りかけたけど、ふと手の先に空間ができていることに気づく。おお、立ち上がることによって腹圧が減り、重力によって子宮全体も下に下がったので子牛が自動的にひっこんだ。 母は偉大だ・・・。 チャーーーーーーンス!この機会を逃すものか。ササッと子宮をまさぐり、子牛の頭をキャッチ。子牛の歯が子宮の内壁を傷つけないように、口を手のひらでカバーするように包み込んで手前に引っ張る。するっと頭がついてきた。やった!成功だ!ついにやったぞ! その直後母牛はふうっと息を吐くようにまた寝っ転がった。 だーーかーーらーー、あぶないっちゅうに! 俺の肩が外れるって・・・・。 子牛は?せっかく頭を引っ張り出すことに成功したのに今の衝撃で元に戻ってないか?お、あったあった、頭がすぐそこに。足の上に乗るような形になってる。よおし、あとは簡単だ。普段通りに引っ張ればいいだけ。産道も十分広いからジャッキを使う必要もないだろう。 慎重に子牛の足にロープをかけ、嫁さんと二人でゆっくりと引っ張る。母牛も最後の一踏ん張り。足をピーンと突っ張り、いかにもつらそう。ベエエエエエエエエエっと最後の雄叫びを上げると、スルスルと子牛が出てきた。あまりに順調に出てきたので、力一杯引っ張ろうと構えていた自分は勢い余って尻餅をつく。その膝の上に、ぬるぬるべとべとの子牛がドンッと落ちてきた。すぐにへその緒が切れ、子牛が一息大きく息を吸う。 ん、んえエエエ、と弱々しい声をあげる。
やあ、キミかあ。キミだったのかあ。 大変だったぞお、キミを引っ張り出すのは。 無事生まれてきてよかったねえ。 初めまして、お父さんだよ。 こっちがお母さん。 あ、ほんとのお母さんはキミの後ろで首を投げ出して「でた〜〜〜」ってなかんじでへたり込んでいる人だけど。 ほんと、よかったよかった。初めまして。よろしくね。 ベタベタもかまわず、膝の上のぬるぬるの子牛の頭を抱き包み、話しかけるお父さん。 ほっとした顔で子牛をのぞき込むお母さん。 あきれた顔でお父さんもみていたっけ。 ゴーン、ゴーンとラジオから聞こえていた除夜の鐘の音は、いつの間にか「あけましておめでとうございます」と大合唱へと変わっていた。ありゃりゃ。年が明けちまったよ、かあさん。汗でべとべと、粘液でぬるぬるになった顔を見合わせて、嫁さんと二人で苦笑い。 あらためて位をただし、二人向かい合って「あけましておめでとうございます。今年もどうぞよろしく」
初めまして、ファームデザインズの海野と申します。 1987年夏、私たちは北海道の東に位置する浜中町というところで、離農された牧場を買い取り、夫婦二人で牧場を始めました。 私が26歳、嫁さん23歳。長女がまだ1歳でした。
現代において自分たちの牧場を始められるというチャンスは、なかなかないお話だと思います。最近でこそ国の制度が整い、都会から農村へ就農する人が増えましたが、私達が大学を卒業した頃にはまだそんな制度もなく、農業は代々跡取りが次いでいくもので、他から入り込む余地などないのが実情でした。私は北海道の帯広畜産大学に進みましたが、そんな事情もあって自分で牧場を始めるつもりなど、全然ありませんでした。いや、はなから無理な事だと思っていたので、考えた事すらなかったのです。私が中学生の頃に放映されていた「大草原の小さな家」というテレビ番組。ああいった世界を垣間見れるような機会が、現代に、そして自分に訪れようとは、まさか思ってもみませんでした。
でも若かったんですねえ。 離農跡地を有効利用するために、国が「リース牧場制度」というものを作り、別分野からでも農業への参入が可能になったときに、私は1も2もなくこの話に飛びつきました。北海道で牧場を始められる! その一言だけで若い血をたぎらせるのは十分ではないですか(笑)。あれからはや21年がたとうとしています。1歳だった長女も22歳になり、牧場を始めてから生まれた長男も今年20歳。ありゃりゃという感じです。都会育ちの私たちがいかにしてあこがれの北海道で牧場を手に入れ、泣き笑いしながら形にしてきたか。 そして牧場内にレストランを始め、ファームデザインズという会社に育ててきたかなどを、これから綴っていきたいと思います。 今、日本の農業は大変な局面にたとうとしています。いままでも日本の農業の危機が叫ばれてきましたが、これからの大変さは今までのそれとは次元が違うものになるでしょう。根本から揺さぶられ、再構築されるに違いありません。また、そうならなければ日本の農業は壊滅してしまいかねない、とも思います。私たちの経験をお話しすることによって、もっといっぱい若い人たちが農業に参入してくるきっかけになってくれれば、そして従来の概念を覆すような新しい試みをどんどんやっていってくれれば、 日本の農業はきっと変わる。一番おもしろい職業になる。そう思います。 そんな難しいことを考えなくても、北海道の牧場での生活、そのものが素晴らしいライフスタイルです。絶対におすすめ。でも、現代の日本の牧場の現場ってどんなものか、都会では想像もつかないでしょう? 私たちも都会に住んでいるときはそうでしたもん。何となく漠然とした憧れがあるだけでした。 私たちの会社ファームデザインズは、 そんな北海道の牧場での生活を都会の人たちにも伝えたい。 都会に住んで仕事に追われていても、私たちの製品に触れたりお店に足を運んでくれれば一瞬にして北海道の牧場風景の中に入り込めるような、そんな存在になりたい。 そんな思いを込めて立ち上げました。今では浜中町の牧場内にある本店のほかに、釧路にもレストランの支店を設けています。レストランで一生懸命手作りしていたスイーツが次第に話題になり、全国の百貨店からお呼びがかかり、今では「北海道物産展」などにも積極的に参加しています。どこかでこれを読んでくださっているみなさんとお会いできればいいですね。
では、ファームデザインズ物語のはじまりはじまりです。
---------------------------------------------------- 北海道で牧場を始める物語 --------------------
ファームデザインズ社長 海野泰彦
1987年 牧場を始めた頃 傾いた牛舎と春にはドロドロになる未舗装の道

第1話 ある厳冬の牛舎にて
も、もう少しで子牛の頭の後ろに手が回る・・・自分の腕の太さを恨みつつ、肩のところまで母牛の子宮に突っ込んだ腕をさらに奥に入れようと試みる。 踏ん張りがきかない。−20℃近くまで冷え込んでいる厳冬の夜、コンクリートの床は凍ってつるつると滑る。 「あ、足、おさえて!」嫁さんに足を支えてもらって、何とか踏ん張ろうとするがうまくいかない。子牛の頭をまさぐる指がウニョウニョとむなしく子宮の中をまさぐる。「あ、あと少しなんだよなあ、くっそ〜〜」もうあと数センチで頭の後ろに指が回る。 そしたらあっちゃ向いてホイしてしまってる子牛の頭を、正常な位置に戻せる。ほんの数センチ。その数センチがなんとしても届かない。足の位置を変え、体の向きを変え、右手を左手に変えてのたうち回るが、届かない。 数センチが、遠い・・・。
「あ、除夜の鐘だ・・・」 途方に暮れて、腕を子宮に入れたままふと周りを見渡したとき 、心配そうに後ろでみている嫁さんの顔とともに、牛舎につけているラジオから、かすかに除夜の鐘の音が聞こえてきた。 「今年も終わるなあ、いろいろあったなあ・・・」 難産と格闘してはや30分が過ぎようとしていた。 外は−20℃。
そんな酷寒の夜、難産の牛の助産をすることになった。1987年の大晦日。私たち夫婦が牧場を始めてからまだ半年たったばかりの事だった。
今日は大晦日だし、さっさと仕事を終わらせて家で紅白歌合戦でもみながら年越しを・・・。あれ?あの牛、尻尾あげてソワソワ?うろうろ? カレンダーをみる。 予定日は1月7日。 ありゃあ、1週間も早く陣痛がきちゃったのかい、キミ。どう見ても陣痛だなあ、あれは。ああ、暖かいこたつが。テレビを見ながらミカンを食べる幸福な大晦日が・・・・・。まあ、経産牛(1度お産を経験している牛)だし、ほっとけば自分で生んでくれるでしょ。
なんて気軽に考えるときほど、問題が起きる。 すぐに分娩が始まるだろうと、乾草をたっぷり敷いたペンにいれてやる。母牛はしばらく不審そうにあちこちにおいをかぎまわり、ふかふかのわらのベッドを足でつんつんしてクッションを確認したりしてしばらく落ち着かない様子。私たちが買い取った離農跡地には古い牛舎が1棟あるだけで、お産をするための特別なエリアがなかった。仕方がないので牛舎の片隅に囲いを設け、そこに干し草をいっぱい敷き詰めて「分娩室」としていた。他の牛からも丸見えで、みんな「なになに? 何が始まるの?」というような調子で、物珍しそうに見に来るので、お産する母牛もなんだか落ち着かない。しばらくして安心安全を確認したのか、母牛はゆったりとわらの上に横たわった。
すぐに陣痛が強くなる。 横たわると腹圧が上がり、子牛が出ようとする動きが強くなるためだ。夕方の搾乳作業が終わる頃には、生んでしまっているだろうと、母牛に任せて搾乳作業に専念する。 夕方6時。 搾乳を終わらせ、さあ、生まれた子牛は雄かな雌かな、と楽しみにしながら母牛の元へ。 あれ?まだ? 結構時間がかかるねえ。どれどれ? 陰部をのぞき込むと膜のようなものがたれている。ブフォーーブフォーーーと母牛は苦しそうな息を吐いている。「破水はしたんだねえ。何で出てこない?」 逆子だったらイヤだから一応触診しておくか。
ー20℃だろうが何だろうが、ダウンジャケットを着たまま助産はできない。腕を肩までまくり上げなくてはならないから。 だから、えいや!っとパーカを脱ぎ捨て、薄着になる。 あまりの寒さに「うふふふふ」と声を出して笑い始める(マイナス20度なので・・・)すでに奥の歯がかちかち言い始める。 「ここは度胸の男一匹ーーー」と本人も意味不明の演歌風の歌を叫びながらシャツ一枚になる。 嫁さんが「はいはい、わかったから、何でもいいから早く脱いではじめてね」とあきれ顔で脱いだ服を受け取る。え?そんなこと言ってないって?(by、ヨメサン) イヤ、言ってた!あの顔はそういってた!
感染を防ぐために肩まであるビニールの使い捨て手袋をはめる。その上から細かい作業もできるように手術用のラテックスゴムの手袋も。お湯に消毒液を加えたもので丹念に消毒するが、水滴はあっという間に凍り始めようとする。母牛の様子を見ながらそっと子宮内に挿入。 牛の体温は平均39度程度。中はとっても暖かい。体は凍えるほど寒く、腕はぽかぽかと暖かい、変な感覚。
お、足に触れる、そこまできてるじゃない。足の向きは正常だし、こりゃ逆子でもないなあ。産道は? うん、十分に開いてる。何でこれで生まれてこない? 条件はそろって・・・る・・・・、 あれ? 子牛の頭は? 頭はどこ? 子牛の頭は、いずこへ?
いやな予感。まさか、奇形? ・・・どひゃあああ。初めての遭遇、未知との遭遇、しかも頭なしの大胆不敵な奇形? ああ、なんてスプラッターな・・・・・・。 うん? これなんだ? これなあああんだ? あ、耳だ。うん、きっと耳だ(自分に言い聞かせるように心で叫ぶ)。 耳の先には頭がある。あるに違いない! ぐぐっと手を奥に入れる。 すると母牛も子牛が生まれようとしていると勘違いして陣痛がきつくなる。イタタタタタ! 母牛の体と子牛の骨格に挟まれて手が押しつぶされそうになる。ググッ、グイグイ、アイタタタタタ。 陣痛と陣痛の合間をぬって、耳の先へと手を推し進める。あった!あったぞ、頭。
本来なら前足が2本そろって出てきて、頭はその上にちょんと乗っかるような形で産道を進んでくるのが正常なお産である。 でもこの子牛は何の拍子か頭だけコースから外れてしまったらしい。 頭だけ横に向き、足だけ産道に進んできたのだ。ただでさえ狭い産道。このままでは絶対に生まれない。 方法はただ一つ。 せっかく進んできてくれた子牛だけれど、いったん子宮の中に戻っていただいて、頭を引っ張りもどしてからあらためて産道へ同伴出勤してもらう必要がある。 言葉で言うのは簡単だけれど、この「いったんお引き取りいただく」というのが尋常じゃない。いったん陣痛が始まったら、子牛を押し戻そうとすればするほど、より強い陣痛で押し出されてくる。 押し戻す、押し出される。 すごい力。母は偉大だ。たちまち汗が噴き出す。 さっきまで凍えそうだった体は、ほっかほか。おまけに産道に締め付けられた腕には血が通わなくなり、力がだんだん入らなくなる。母牛の体力の消耗もあるし、時間との戦いだ。押し戻した隙にささっと隙間をぬって頭を持とうとするのだけれど、ぬるぬるしているのでとらえどころがない。何度も何度も失敗する。 あと数センチ腕が長ければ、もっと腕が細ければとどくんだけどなあ・・・剣道で鍛えちゃったからなあ、この腕。ああ、太くて短いこの腕が憎らしい・・・・。
と、その時、意を決したように母牛が立ち上がったのです。 陣痛でお腹痛い真っ最中だろうに。むくつけき男がふっとい腕を突っ込んでいる最中だというのに! おおっと、肩が脱臼する! と慌てて母牛の動きに合わせて一緒に立ち上がる。 母牛も必死、こっちも必死。 なんて無茶なことをするの!と怒りかけたけど、ふと手の先に空間ができていることに気づく。おお、立ち上がることによって腹圧が減り、重力によって子宮全体も下に下がったので子牛が自動的にひっこんだ。 母は偉大だ・・・。 チャーーーーーーンス!この機会を逃すものか。ササッと子宮をまさぐり、子牛の頭をキャッチ。子牛の歯が子宮の内壁を傷つけないように、口を手のひらでカバーするように包み込んで手前に引っ張る。するっと頭がついてきた。やった!成功だ!ついにやったぞ! その直後母牛はふうっと息を吐くようにまた寝っ転がった。 だーーかーーらーー、あぶないっちゅうに! 俺の肩が外れるって・・・・。 子牛は?せっかく頭を引っ張り出すことに成功したのに今の衝撃で元に戻ってないか?お、あったあった、頭がすぐそこに。足の上に乗るような形になってる。よおし、あとは簡単だ。普段通りに引っ張ればいいだけ。産道も十分広いからジャッキを使う必要もないだろう。 慎重に子牛の足にロープをかけ、嫁さんと二人でゆっくりと引っ張る。母牛も最後の一踏ん張り。足をピーンと突っ張り、いかにもつらそう。ベエエエエエエエエエっと最後の雄叫びを上げると、スルスルと子牛が出てきた。あまりに順調に出てきたので、力一杯引っ張ろうと構えていた自分は勢い余って尻餅をつく。その膝の上に、ぬるぬるべとべとの子牛がドンッと落ちてきた。すぐにへその緒が切れ、子牛が一息大きく息を吸う。 ん、んえエエエ、と弱々しい声をあげる。
やあ、キミかあ。キミだったのかあ。 大変だったぞお、キミを引っ張り出すのは。 無事生まれてきてよかったねえ。 初めまして、お父さんだよ。 こっちがお母さん。 あ、ほんとのお母さんはキミの後ろで首を投げ出して「でた〜〜〜」ってなかんじでへたり込んでいる人だけど。 ほんと、よかったよかった。初めまして。よろしくね。 ベタベタもかまわず、膝の上のぬるぬるの子牛の頭を抱き包み、話しかけるお父さん。 ほっとした顔で子牛をのぞき込むお母さん。 あきれた顔でお父さんもみていたっけ。 ゴーン、ゴーンとラジオから聞こえていた除夜の鐘の音は、いつの間にか「あけましておめでとうございます」と大合唱へと変わっていた。ありゃりゃ。年が明けちまったよ、かあさん。汗でべとべと、粘液でぬるぬるになった顔を見合わせて、嫁さんと二人で苦笑い。 あらためて位をただし、二人向かい合って「あけましておめでとうございます。今年もどうぞよろしく」
初めまして、ファームデザインズの海野と申します。 1987年夏、私たちは北海道の東に位置する浜中町というところで、離農された牧場を買い取り、夫婦二人で牧場を始めました。 私が26歳、嫁さん23歳。長女がまだ1歳でした。
現代において自分たちの牧場を始められるというチャンスは、なかなかないお話だと思います。最近でこそ国の制度が整い、都会から農村へ就農する人が増えましたが、私達が大学を卒業した頃にはまだそんな制度もなく、農業は代々跡取りが次いでいくもので、他から入り込む余地などないのが実情でした。私は北海道の帯広畜産大学に進みましたが、そんな事情もあって自分で牧場を始めるつもりなど、全然ありませんでした。いや、はなから無理な事だと思っていたので、考えた事すらなかったのです。私が中学生の頃に放映されていた「大草原の小さな家」というテレビ番組。ああいった世界を垣間見れるような機会が、現代に、そして自分に訪れようとは、まさか思ってもみませんでした。
でも若かったんですねえ。 離農跡地を有効利用するために、国が「リース牧場制度」というものを作り、別分野からでも農業への参入が可能になったときに、私は1も2もなくこの話に飛びつきました。北海道で牧場を始められる! その一言だけで若い血をたぎらせるのは十分ではないですか(笑)。あれからはや21年がたとうとしています。1歳だった長女も22歳になり、牧場を始めてから生まれた長男も今年20歳。ありゃりゃという感じです。都会育ちの私たちがいかにしてあこがれの北海道で牧場を手に入れ、泣き笑いしながら形にしてきたか。 そして牧場内にレストランを始め、ファームデザインズという会社に育ててきたかなどを、これから綴っていきたいと思います。 今、日本の農業は大変な局面にたとうとしています。いままでも日本の農業の危機が叫ばれてきましたが、これからの大変さは今までのそれとは次元が違うものになるでしょう。根本から揺さぶられ、再構築されるに違いありません。また、そうならなければ日本の農業は壊滅してしまいかねない、とも思います。私たちの経験をお話しすることによって、もっといっぱい若い人たちが農業に参入してくるきっかけになってくれれば、そして従来の概念を覆すような新しい試みをどんどんやっていってくれれば、 日本の農業はきっと変わる。一番おもしろい職業になる。そう思います。 そんな難しいことを考えなくても、北海道の牧場での生活、そのものが素晴らしいライフスタイルです。絶対におすすめ。でも、現代の日本の牧場の現場ってどんなものか、都会では想像もつかないでしょう? 私たちも都会に住んでいるときはそうでしたもん。何となく漠然とした憧れがあるだけでした。 私たちの会社ファームデザインズは、 そんな北海道の牧場での生活を都会の人たちにも伝えたい。 都会に住んで仕事に追われていても、私たちの製品に触れたりお店に足を運んでくれれば一瞬にして北海道の牧場風景の中に入り込めるような、そんな存在になりたい。 そんな思いを込めて立ち上げました。今では浜中町の牧場内にある本店のほかに、釧路にもレストランの支店を設けています。レストランで一生懸命手作りしていたスイーツが次第に話題になり、全国の百貨店からお呼びがかかり、今では「北海道物産展」などにも積極的に参加しています。どこかでこれを読んでくださっているみなさんとお会いできればいいですね。
では、ファームデザインズ物語のはじまりはじまりです。
2009.03.17
お墓を建てた、牛たち
第2話 お墓を建てた、牛たち
「倒れないように」電信柱でつっかい棒をした入植当時の牛舎

- 牛の死 -
牧場経営において、牛は経済動物。経済の基準で考えて損得でその生死をドライに判断していかないと、一人前の経営者たり得ません。それは他の畜産、ブタや鶏でも同じ事。どんなにかわいいと思っていても、利益を生み出さない個体を牧場に留めておく事は、他の優秀な牛たちの足を引っ張る事になります。
とはいっても、生まれ落ちたときから手塩にかけて育ててきた牛に対して、そんなに徹底してドライになれるわけはありません。おとなしくて、よくお乳を出して、がんばってくれた牛に、役に立たなくなったからといってすぐ売り払ってしまえる神経の持ち主には、あまりなりたくないもんです。
一応最新の酪農学を学んだものとして、またアメリカの最新の情報を駆使して牧場を切り盛りしていた入植当時、経済動物、経済動物と割り切りながらも、どうしても割り切れない牛が過去2頭ばかりいました。1頭は入植するときにお世話になった農協の組合長(当時専務)の牧場から分けていただいた牛。23番。その血統からいって特別素晴らしい成績を残す血統ではないけど、といいながら、はなむけに1頭だけ分けて下さいました。これが大化け。もりもり食べて出すわ出すわ。それに足腰が丈夫で、性格もどっしり落ち着いてました。結局10産もお産をしてくれて、最後はさすがに妊娠ができずにそのまま淘汰。一番大変な時期を、心配をかけずにがんばってくれた23番を送り出すとき、あのときはなんか経済経済と生意気な思考回路が働いて送り出してしまったけれど、今ならけっしてそんな事はせず、日がな一日余ったエサを食べさせながら老後を過ごさせてやったろうにと思うけれど、だけど送り出してしまいました。形見に、と襟首の毛を少し切り取って、墓標を牧草地に立てました。何百頭も過ぎ去っていく牛たちに、いちいち墓を建てていたら牧草地が墓地になってしまうと笑われましたが、でもあの牛はそんなに割り切れなかったですねえ。今でもドシッとした、なにか悟ったような顔をした落ち着いた顔が忘れられません。
あと1頭は55番。真っ黒で「黒ちゃん」と呼ばれてました。小柄だけれどもほんとにおとなしくて、いい牛でした。乳量もピカ1。ただ、乳房炎にかかりやすかった。そこがマイナス面。この子の子供は絶対残したい、そう思って自然分娩で2頭の雌を取った後、受精卵をいっぱい取って凍結保存しました。まだ、卵は2個残っています。
乳量がでなかったり、種がとまらなかったり、気性が荒かったりしたら結構さっぱりとあきらめられるものです。でも、人なつっこくておまけに成績もいいとなると、そんな牛がトラブルにあって廃用になっていく経過を見るのは本当につらい。絶対に割り切れないものです。この牛も尻尾の毛を切り取り、市場へ送り出してから墓標を立てました。その時も経済動物なんだから、と一人前の酪農家になったつもりで自分に言い聞かせていたような気がします。1頭くらいペットで飼っていても、何ら支障ないはずなのに・・・心に余裕がなかった証拠ですね。
母牛のお腹の中で大きくなりすぎていて、難産になってようやく引っ張り出した子牛。しかも逆子。やっぱり思ったとおり大量の羊水を肺に吸い込んでいて、呼吸がおぼつかない。猛烈な吹雪の中、子牛小屋で逆さにつって水をはき出させ、藁で体をこすり暖め、励まし、それでもだめだったので直接子牛の鼻に自分の口をあて、吸い出す。
あらためて片方の鼻の穴を手でふさぎ、口をあてて息を吹き込み人工呼吸。「がんばれ!」鼻汁まみれ、羊水まみれの顔で叫ぶ。
でも、結局助からなかった。いってしまった。あれだけ苦労してお産させて、今の今まで生きていたのに。腕の中で弛緩し、冷たくなっていく子牛。
一連の作業を後ろで見ていた実習生の女の子は、ショックを受けた顔で見ているだけ。どうしていいかわからないのでただたっているしかなかったのだろう。目にはうっすらと涙。一連の後片付けが終わった後、うちの嫁さんに「社長ってすごいですね」と小さな声で言っているのが聞こえてきた。すごいんじゃないんだよ。行ってしまおうとしている小さな命を前にしたら、普通にできちゃうさ、君だって。
牧草地の雪景色のきれいさに目を輝かせ、厳しい寒ささえも楽しんでいたその実習生は、結局、酪農の道へ進むことはありませんでした。自分には自信がないということでした。
生き物を飼うということはきれい事ではないというけれど、ま、そうなんだけれども、でもね・・・・・
腹すえてこの世界に飛び込んだものと、「体験」という「アトラクション」のような感じでこの世界をのぞきに来た人とのギャップは、どうにも埋めがたく。いま不況で農業への転職がもてはやされつつある世の中だけれど、「こころしておいでなさい」と、そっとテレビに向かってささやく今日この頃です。
1年のうちに何回も、20年もやっていれば何百回もこういう事に出会うことになります。牛たちも早ければ4,5年で入れ替わっていく。1番から始まって、いまうちの牛の耳標が700番台ということは700頭の牛を見送ってきたということです。
こんなつらいことも伝えていくのが、私たちの役目だと、思います。自分たちが何を食べているのか。キチンと伝えていくのが、大切だということを怖がってはいけないと思います。危ないもの、汚いもの、大変な目に遭うことを遠ざけてきたいまの教育は、「とんでも人間」を作る下地になっていると思えて仕方がないので。
都会で生まれ育ったら、「死」というものはほとんど身近には感じられません。お葬式に出たとしても、そこには結果としての「死」を見るだけ。
大切に育てた牛たちが全部自分たちよりも先に行ってしまう。当たり前の事だけれども、その子の生まれたときから最後までを看取っていく。自分の子供に先立たれるような、そんな体験を何十、何百回と繰り返していく。都会で生まれ育った私達には強烈で、つらい現実が津波のように押し寄せてくる。そんな経験が、私達の心の底に少しずつたまっては、少々の事ではたじろがない強い心を持てる糧になってくれたのではないか、と最近考えます。
「倒れないように」電信柱でつっかい棒をした入植当時の牛舎

- 牛の死 -
牧場経営において、牛は経済動物。経済の基準で考えて損得でその生死をドライに判断していかないと、一人前の経営者たり得ません。それは他の畜産、ブタや鶏でも同じ事。どんなにかわいいと思っていても、利益を生み出さない個体を牧場に留めておく事は、他の優秀な牛たちの足を引っ張る事になります。
とはいっても、生まれ落ちたときから手塩にかけて育ててきた牛に対して、そんなに徹底してドライになれるわけはありません。おとなしくて、よくお乳を出して、がんばってくれた牛に、役に立たなくなったからといってすぐ売り払ってしまえる神経の持ち主には、あまりなりたくないもんです。
一応最新の酪農学を学んだものとして、またアメリカの最新の情報を駆使して牧場を切り盛りしていた入植当時、経済動物、経済動物と割り切りながらも、どうしても割り切れない牛が過去2頭ばかりいました。1頭は入植するときにお世話になった農協の組合長(当時専務)の牧場から分けていただいた牛。23番。その血統からいって特別素晴らしい成績を残す血統ではないけど、といいながら、はなむけに1頭だけ分けて下さいました。これが大化け。もりもり食べて出すわ出すわ。それに足腰が丈夫で、性格もどっしり落ち着いてました。結局10産もお産をしてくれて、最後はさすがに妊娠ができずにそのまま淘汰。一番大変な時期を、心配をかけずにがんばってくれた23番を送り出すとき、あのときはなんか経済経済と生意気な思考回路が働いて送り出してしまったけれど、今ならけっしてそんな事はせず、日がな一日余ったエサを食べさせながら老後を過ごさせてやったろうにと思うけれど、だけど送り出してしまいました。形見に、と襟首の毛を少し切り取って、墓標を牧草地に立てました。何百頭も過ぎ去っていく牛たちに、いちいち墓を建てていたら牧草地が墓地になってしまうと笑われましたが、でもあの牛はそんなに割り切れなかったですねえ。今でもドシッとした、なにか悟ったような顔をした落ち着いた顔が忘れられません。
あと1頭は55番。真っ黒で「黒ちゃん」と呼ばれてました。小柄だけれどもほんとにおとなしくて、いい牛でした。乳量もピカ1。ただ、乳房炎にかかりやすかった。そこがマイナス面。この子の子供は絶対残したい、そう思って自然分娩で2頭の雌を取った後、受精卵をいっぱい取って凍結保存しました。まだ、卵は2個残っています。
乳量がでなかったり、種がとまらなかったり、気性が荒かったりしたら結構さっぱりとあきらめられるものです。でも、人なつっこくておまけに成績もいいとなると、そんな牛がトラブルにあって廃用になっていく経過を見るのは本当につらい。絶対に割り切れないものです。この牛も尻尾の毛を切り取り、市場へ送り出してから墓標を立てました。その時も経済動物なんだから、と一人前の酪農家になったつもりで自分に言い聞かせていたような気がします。1頭くらいペットで飼っていても、何ら支障ないはずなのに・・・心に余裕がなかった証拠ですね。
母牛のお腹の中で大きくなりすぎていて、難産になってようやく引っ張り出した子牛。しかも逆子。やっぱり思ったとおり大量の羊水を肺に吸い込んでいて、呼吸がおぼつかない。猛烈な吹雪の中、子牛小屋で逆さにつって水をはき出させ、藁で体をこすり暖め、励まし、それでもだめだったので直接子牛の鼻に自分の口をあて、吸い出す。
あらためて片方の鼻の穴を手でふさぎ、口をあてて息を吹き込み人工呼吸。「がんばれ!」鼻汁まみれ、羊水まみれの顔で叫ぶ。
でも、結局助からなかった。いってしまった。あれだけ苦労してお産させて、今の今まで生きていたのに。腕の中で弛緩し、冷たくなっていく子牛。
一連の作業を後ろで見ていた実習生の女の子は、ショックを受けた顔で見ているだけ。どうしていいかわからないのでただたっているしかなかったのだろう。目にはうっすらと涙。一連の後片付けが終わった後、うちの嫁さんに「社長ってすごいですね」と小さな声で言っているのが聞こえてきた。すごいんじゃないんだよ。行ってしまおうとしている小さな命を前にしたら、普通にできちゃうさ、君だって。
牧草地の雪景色のきれいさに目を輝かせ、厳しい寒ささえも楽しんでいたその実習生は、結局、酪農の道へ進むことはありませんでした。自分には自信がないということでした。
生き物を飼うということはきれい事ではないというけれど、ま、そうなんだけれども、でもね・・・・・
腹すえてこの世界に飛び込んだものと、「体験」という「アトラクション」のような感じでこの世界をのぞきに来た人とのギャップは、どうにも埋めがたく。いま不況で農業への転職がもてはやされつつある世の中だけれど、「こころしておいでなさい」と、そっとテレビに向かってささやく今日この頃です。
1年のうちに何回も、20年もやっていれば何百回もこういう事に出会うことになります。牛たちも早ければ4,5年で入れ替わっていく。1番から始まって、いまうちの牛の耳標が700番台ということは700頭の牛を見送ってきたということです。
こんなつらいことも伝えていくのが、私たちの役目だと、思います。自分たちが何を食べているのか。キチンと伝えていくのが、大切だということを怖がってはいけないと思います。危ないもの、汚いもの、大変な目に遭うことを遠ざけてきたいまの教育は、「とんでも人間」を作る下地になっていると思えて仕方がないので。
都会で生まれ育ったら、「死」というものはほとんど身近には感じられません。お葬式に出たとしても、そこには結果としての「死」を見るだけ。
大切に育てた牛たちが全部自分たちよりも先に行ってしまう。当たり前の事だけれども、その子の生まれたときから最後までを看取っていく。自分の子供に先立たれるような、そんな体験を何十、何百回と繰り返していく。都会で生まれ育った私達には強烈で、つらい現実が津波のように押し寄せてくる。そんな経験が、私達の心の底に少しずつたまっては、少々の事ではたじろがない強い心を持てる糧になってくれたのではないか、と最近考えます。
2009.03.21
北海道に憧れて
第3話 北海道に憧れて
帯広畜産大学時代、ロッククライミングに夢中になっていた頃

ファームデザインズは1987年に私たち夫婦が現在地の離農跡地に新規就農したところから始まります。もちろん、最初は牧場だけでした。牧場はいまでも個人事業のままですが、レストラン、製菓のために作った会社が「ファームデザインズ」です。それも今から9年前の事。それまでの12年間はひたすら牧場に打ち込みました。
最近雑誌の取材も多くなり、なぜ北海道に? とか、牧場をやりたくて北海道に来られたのですか? と、よく聞かれます。そう、誰もが「きっかけ」が気になりますよね。
私の場合、正直なところ牧場をする事が目標!と北海道に来たわけではありませんでした。
だいたい私みたいな都会育ちのものが、牧場をやれるなんて思っても見なかったのです。農業というものは代々引き継がれていくもの。先祖代々農家の人しかできない。まして都会で生まれ育った自分のようなものが、土地を買って農業を始めるなんて制度的に無理、と考えていました。だから、やりたいやりたくないという問題ではなく、あたまから「できない」と思っていたので、将来の選択肢に全くなかったのです。
出身大学が帯広畜産大学、家畜生産科学科というところで、もとは「酪農学科」と呼ばれていた学科です。そのことを話すと「ああ、牧場をやるためにそう言ったところを出られたのですね」とか、妙にしたり顔で納得されてしまいます。が、大学時代はひたすら遊んでいたので、でも、ちょっと自慢もしてみたかったりするので、「え?! あ、ええ・・・まあ」なんて曖昧な返事をする事にしています(笑)
大学時代は本当に今思い返しても「いい大学だった」と胸を張っていえるほど、遊んでおりました・・・・・。授業は授業で実習が主体の構成なのでおもしろいし、北海道の十勝というこれ以上ない自然環境に恵まれているしで、夢のような4年間、だったような気がします。(あ、ついでに「嫁さんとも出会ったし」をいれないのか?と後ろから言われているので、一応、入れておきます(-。-;)
生まれ育ったところは、大阪の西成区。
そう、あの西成区。日本のニューヨークと呼ばれる、あの西成区。知ってる人は知っている。知らない人は知らないままのほうがいい、西成区(笑)
名だたる不良たちもそこだけは避けて通ると言われる、大阪のブロンクス、西成区。
20歳までそこで育った私は、しかしながら、下級生を締め上げてカツアゲしたり、その辺にごろごろしてる浮浪者のおっさんたちを蹴飛ばして遊んでみたり、シンナーやシャブに手を出す事もなく、奇跡的にすくすくと育っていました。中学の時に出会った剣道に夢中で、また、小学校の時に覚えた登山のために土曜日曜のほとんどを費やしていたので、不良になる「ヒマ」がなかったのです。中学校の時にあまり剣道に夢中になってしまったので、学業を心配した両親が私を「塾」に入れる事にし、それまで平凡だった成績がみるみるうちに伸び始めると、そっちはそっちで目が回るほど忙しいし、と、本当に余計な事に時間を費やしているヒマが一切なくなってしまいました。おかげで横道にそれる事もなく、幼少時代を無事過ごしたのでありました。
近くの六甲山に毎週通うほど、山登りに夢中になっていた事もあって、少年時代の関心事はもっぱら「大自然」でした。今でもよく覚えていますが、昔NHKで放映されていた「大草原の小さな家」という海外ドラマ。最初は連続ではなく、単発の海外ドラマとして私が中学校の時に第1回目が放映されたのです。たまたまテレビでその放送を見た私は、たちまち魅了されました。親友の家に上がり込み、熱心にあんな生活が理想だ、と語った記憶があります。でも現代の日本ではかなうべきもないお話。自然の規模が違います。でも、漠然とした夢が心の片隅に巣くった記念すべき瞬間だった事は、疑いようがありません。
時は過ぎ、高校生時代。相変わらず剣道と週末の山登りに夢中になっていた私は、進学の時期になり、そろそろ自分の将来を決めなければならない状況に追い込まれていました。追い込まれていたというのは、とくに「これ!」という進路が見つけることができないでいたからです。剣道で飯は食っていけないし、普通の大学に行って普通の会社に勤めても、山登りなんて遠い存在になってしまうし。自分の好きな事をしていくためにはどうしたらいいのやろ?と贅沢な事で悩んでいました。とりあえず剣道が好きだったのと、夏休みとかがあってその間に好きな山登りがいっぱいできるかも、というとっても甘い考えで体育の教師になろうと考えた私は、大阪教育大学を受験する事にしました。
2次試験が「実技のみ」というのも大きな魅力でした。問題は競争率が18倍だったこと。「特攻に行って帰ってくるようなもんやな」と言われました(^_^;
2種目選択だったので「体操」と「剣道」を選択。特に剣道は、高校の剣道部の顧問が大阪教育大学剣道部の顧問もされていたので、部の練習が終わった後、先生に連れられて教育大の練習に参加させてもらっていた位なので、勝手知ったる先輩方を相手に実にのびのびと試験を受ける事ができ、好成績を残せたと思います。しかししかし、問題はこの年がかの「共通1次試験」の第1回目の年だったのです。比重は共通1次試験のほうが圧倒的に重たかったので、「滑り止め」に体育学科を受けに来た筆記試験が得意な連中にあっさりと負けてしまいました。実技では「え?!」というような人たちが体育の先生になっていきました(◎-◎;)
家の事情で国公立しか受ける事ができなかったので、滑り止めとして私立も受験していなかった私は、あえなく浪人です。で、意欲もなく予備校に通い始め、情熱をぶつけられる新たな目標が見つけられなくて鬱々としていたある日、ちょっと待て、狭い範囲で考えているからどうしようもないのではないか? 今一度、自分の置かれている立場の制限をなくして、これからを考えてみたらどうか?と思いつきました。予備校の授業の休憩時間の事でした。この思いつきに夢中になった私は、どんどんわき上がる可能性に顔を紅潮させ、次の授業が始まるのも忘れて一人予備校前の公園で物思いにふけりました。
そこでどうしようもなくわき上がってくる熱い思いの根源をたどったところ、やはりあの「大草原の小さな家」なのだという事がわかったのです。あんな生活をしてみたいと考えたわけではなく、自分の希望の全てのベースはあのような世界、と確認しただけですが、それでも進路を決めるのには十分でした。後ろ向きな理由で決めていた教育大学なんて、自分にとってはナンセンス。過ちがはっきりとわかりました。大阪で、という垣根を払ってしまったとき、すぐに浮かんできたのは「北海道」という土地でした。
高校3年生の時、登山の雑誌の横に並んでいた「アウトドア」と「ウッディライフ」という新しい雑誌に出会います。その記事にのめり込みました。アウトドアという雑誌には北海道でのアウトドアシーンの特集が組まれ、外国のような風景の中でアウトドアライフを楽しむ人たちの記事がこれでもかと詰め込まれていました。日本にもこんな大自然があるんやなあ。ウッディライフという雑誌にはカナダのログハウススクールの紹介記事が載り、ログハウスに住みながら人生を楽しむ人たちがこちらに向かって「さあ、君もおいでよ」といってました。もちろん高校生の身分、夢物語にしかなりませんでしたが、鞄の中にいつも詰め込み、休み時間中何回も何回もボロボロになるまで読み返していたのを覚えています。
自分を取り巻く垣根を取り払って考えてみたとき、この雑誌の記事が「できるかも・・・」的な存在になったのです。血湧き、肉躍るという経験はあのことを言うのかなあ。もう、それからは無我夢中です。北海道、北海道、北海道、寝ても覚めても北海道。何せ、今の自分の停滞を打ち破るには北海道!と猪突猛進です。
でも、どうしたら? その時に出てきたのが帯広畜産大学という選択肢でした。日本の北の果ての大学と言えば北海道大学。でも、それよりまだ向こう、しかも人里離れた原野の中にぽつんと存在する国立大学があるらしい。この、らしい、というのがみそですね。
何という曖昧な! ひょっとしたら「ない」かも知れないのか?
もう一目惚れ、ではなく、一耳惚れ。いくならその大学しかないでしょ!
という事で、私の進路はというか、進学だけではなく人生の進路まで、この瞬間に決まってしまったのかも知れません。
しかしそれからが長かった。何せ高校時代は「文系」だったので、「理系」である帯広畜産大学を受験するには、必要な科目を独学しなければなりません。時はすでに秋。1年目は間に合いませんでした。結局、数学も生物学も独学で勉強し直し、2年浪人したあと、念願の帯広畜産大学へ入学できたのですが、初めて受験のために訪れた北海道は、そんな犠牲を強いてでもくる価値のある土地、想像以上に素晴らしいところでした。全力でぶつかれる相手を見つけられる事は、いつの時代にもとっても幸せな事だとおもいます。
1981年春、大きなバックとラジカセを手に、私は札幌の千歳空港にいました。
新しくなった帯広空港への乗り継ぎ便を待つ間、そのラジカセからは松山千春の「大空と大地の中で」が静かに流れていました。
帯広畜産大学時代、ロッククライミングに夢中になっていた頃

ファームデザインズは1987年に私たち夫婦が現在地の離農跡地に新規就農したところから始まります。もちろん、最初は牧場だけでした。牧場はいまでも個人事業のままですが、レストラン、製菓のために作った会社が「ファームデザインズ」です。それも今から9年前の事。それまでの12年間はひたすら牧場に打ち込みました。
最近雑誌の取材も多くなり、なぜ北海道に? とか、牧場をやりたくて北海道に来られたのですか? と、よく聞かれます。そう、誰もが「きっかけ」が気になりますよね。
私の場合、正直なところ牧場をする事が目標!と北海道に来たわけではありませんでした。
だいたい私みたいな都会育ちのものが、牧場をやれるなんて思っても見なかったのです。農業というものは代々引き継がれていくもの。先祖代々農家の人しかできない。まして都会で生まれ育った自分のようなものが、土地を買って農業を始めるなんて制度的に無理、と考えていました。だから、やりたいやりたくないという問題ではなく、あたまから「できない」と思っていたので、将来の選択肢に全くなかったのです。
出身大学が帯広畜産大学、家畜生産科学科というところで、もとは「酪農学科」と呼ばれていた学科です。そのことを話すと「ああ、牧場をやるためにそう言ったところを出られたのですね」とか、妙にしたり顔で納得されてしまいます。が、大学時代はひたすら遊んでいたので、でも、ちょっと自慢もしてみたかったりするので、「え?! あ、ええ・・・まあ」なんて曖昧な返事をする事にしています(笑)
大学時代は本当に今思い返しても「いい大学だった」と胸を張っていえるほど、遊んでおりました・・・・・。授業は授業で実習が主体の構成なのでおもしろいし、北海道の十勝というこれ以上ない自然環境に恵まれているしで、夢のような4年間、だったような気がします。(あ、ついでに「嫁さんとも出会ったし」をいれないのか?と後ろから言われているので、一応、入れておきます(-。-;)
生まれ育ったところは、大阪の西成区。
そう、あの西成区。日本のニューヨークと呼ばれる、あの西成区。知ってる人は知っている。知らない人は知らないままのほうがいい、西成区(笑)
名だたる不良たちもそこだけは避けて通ると言われる、大阪のブロンクス、西成区。
20歳までそこで育った私は、しかしながら、下級生を締め上げてカツアゲしたり、その辺にごろごろしてる浮浪者のおっさんたちを蹴飛ばして遊んでみたり、シンナーやシャブに手を出す事もなく、奇跡的にすくすくと育っていました。中学の時に出会った剣道に夢中で、また、小学校の時に覚えた登山のために土曜日曜のほとんどを費やしていたので、不良になる「ヒマ」がなかったのです。中学校の時にあまり剣道に夢中になってしまったので、学業を心配した両親が私を「塾」に入れる事にし、それまで平凡だった成績がみるみるうちに伸び始めると、そっちはそっちで目が回るほど忙しいし、と、本当に余計な事に時間を費やしているヒマが一切なくなってしまいました。おかげで横道にそれる事もなく、幼少時代を無事過ごしたのでありました。
近くの六甲山に毎週通うほど、山登りに夢中になっていた事もあって、少年時代の関心事はもっぱら「大自然」でした。今でもよく覚えていますが、昔NHKで放映されていた「大草原の小さな家」という海外ドラマ。最初は連続ではなく、単発の海外ドラマとして私が中学校の時に第1回目が放映されたのです。たまたまテレビでその放送を見た私は、たちまち魅了されました。親友の家に上がり込み、熱心にあんな生活が理想だ、と語った記憶があります。でも現代の日本ではかなうべきもないお話。自然の規模が違います。でも、漠然とした夢が心の片隅に巣くった記念すべき瞬間だった事は、疑いようがありません。
時は過ぎ、高校生時代。相変わらず剣道と週末の山登りに夢中になっていた私は、進学の時期になり、そろそろ自分の将来を決めなければならない状況に追い込まれていました。追い込まれていたというのは、とくに「これ!」という進路が見つけることができないでいたからです。剣道で飯は食っていけないし、普通の大学に行って普通の会社に勤めても、山登りなんて遠い存在になってしまうし。自分の好きな事をしていくためにはどうしたらいいのやろ?と贅沢な事で悩んでいました。とりあえず剣道が好きだったのと、夏休みとかがあってその間に好きな山登りがいっぱいできるかも、というとっても甘い考えで体育の教師になろうと考えた私は、大阪教育大学を受験する事にしました。
2次試験が「実技のみ」というのも大きな魅力でした。問題は競争率が18倍だったこと。「特攻に行って帰ってくるようなもんやな」と言われました(^_^;
2種目選択だったので「体操」と「剣道」を選択。特に剣道は、高校の剣道部の顧問が大阪教育大学剣道部の顧問もされていたので、部の練習が終わった後、先生に連れられて教育大の練習に参加させてもらっていた位なので、勝手知ったる先輩方を相手に実にのびのびと試験を受ける事ができ、好成績を残せたと思います。しかししかし、問題はこの年がかの「共通1次試験」の第1回目の年だったのです。比重は共通1次試験のほうが圧倒的に重たかったので、「滑り止め」に体育学科を受けに来た筆記試験が得意な連中にあっさりと負けてしまいました。実技では「え?!」というような人たちが体育の先生になっていきました(◎-◎;)
家の事情で国公立しか受ける事ができなかったので、滑り止めとして私立も受験していなかった私は、あえなく浪人です。で、意欲もなく予備校に通い始め、情熱をぶつけられる新たな目標が見つけられなくて鬱々としていたある日、ちょっと待て、狭い範囲で考えているからどうしようもないのではないか? 今一度、自分の置かれている立場の制限をなくして、これからを考えてみたらどうか?と思いつきました。予備校の授業の休憩時間の事でした。この思いつきに夢中になった私は、どんどんわき上がる可能性に顔を紅潮させ、次の授業が始まるのも忘れて一人予備校前の公園で物思いにふけりました。
そこでどうしようもなくわき上がってくる熱い思いの根源をたどったところ、やはりあの「大草原の小さな家」なのだという事がわかったのです。あんな生活をしてみたいと考えたわけではなく、自分の希望の全てのベースはあのような世界、と確認しただけですが、それでも進路を決めるのには十分でした。後ろ向きな理由で決めていた教育大学なんて、自分にとってはナンセンス。過ちがはっきりとわかりました。大阪で、という垣根を払ってしまったとき、すぐに浮かんできたのは「北海道」という土地でした。
高校3年生の時、登山の雑誌の横に並んでいた「アウトドア」と「ウッディライフ」という新しい雑誌に出会います。その記事にのめり込みました。アウトドアという雑誌には北海道でのアウトドアシーンの特集が組まれ、外国のような風景の中でアウトドアライフを楽しむ人たちの記事がこれでもかと詰め込まれていました。日本にもこんな大自然があるんやなあ。ウッディライフという雑誌にはカナダのログハウススクールの紹介記事が載り、ログハウスに住みながら人生を楽しむ人たちがこちらに向かって「さあ、君もおいでよ」といってました。もちろん高校生の身分、夢物語にしかなりませんでしたが、鞄の中にいつも詰め込み、休み時間中何回も何回もボロボロになるまで読み返していたのを覚えています。
自分を取り巻く垣根を取り払って考えてみたとき、この雑誌の記事が「できるかも・・・」的な存在になったのです。血湧き、肉躍るという経験はあのことを言うのかなあ。もう、それからは無我夢中です。北海道、北海道、北海道、寝ても覚めても北海道。何せ、今の自分の停滞を打ち破るには北海道!と猪突猛進です。
でも、どうしたら? その時に出てきたのが帯広畜産大学という選択肢でした。日本の北の果ての大学と言えば北海道大学。でも、それよりまだ向こう、しかも人里離れた原野の中にぽつんと存在する国立大学があるらしい。この、らしい、というのがみそですね。
何という曖昧な! ひょっとしたら「ない」かも知れないのか?
もう一目惚れ、ではなく、一耳惚れ。いくならその大学しかないでしょ!
という事で、私の進路はというか、進学だけではなく人生の進路まで、この瞬間に決まってしまったのかも知れません。
しかしそれからが長かった。何せ高校時代は「文系」だったので、「理系」である帯広畜産大学を受験するには、必要な科目を独学しなければなりません。時はすでに秋。1年目は間に合いませんでした。結局、数学も生物学も独学で勉強し直し、2年浪人したあと、念願の帯広畜産大学へ入学できたのですが、初めて受験のために訪れた北海道は、そんな犠牲を強いてでもくる価値のある土地、想像以上に素晴らしいところでした。全力でぶつかれる相手を見つけられる事は、いつの時代にもとっても幸せな事だとおもいます。
1981年春、大きなバックとラジカセを手に、私は札幌の千歳空港にいました。
新しくなった帯広空港への乗り継ぎ便を待つ間、そのラジカセからは松山千春の「大空と大地の中で」が静かに流れていました。
2009.09.13
転機
帯広畜産大学で過ごした4年間は、あまりにいろいろな事がありすぎて、またおいおいご紹介していく事にしましょう。それはそれは濃厚な4年間だったので。
先輩にモヒカン刈りにされて、赤ふんどしで女子大に合コンを申し込みに行かされたりとか、とっても楽しいお話はまた別に機会に・・・・。
さて、大学の4年生になるとそろそろ就職先を考えなくてはなりません。今では3年生にもなると就職活動が始まるようですが、私たちの頃はまだのんびりしたものでした。いや、自分だけがのんびりしていたのかも知れないけど・・・。
自分から望む企業もないまま、そのうち教授がどこか紹介してくれるだろうとのんびり構えていた私に、企業の紹介があったのはもう夏も過ぎようとした頃だったと思います。最初は日立ソフトウェアエンジニアリングという会社からのものでした。というのも私の卒論は牛の疾病に関するコンピューターシミュレーションだったので、ひたすらコンピューターの画面とにらめっこしていた姿を教授が見ていたからでしょう。
もちろん私の反応は「え?」でした。
コンピューター自体は卒論を仕上げるため、研究のデータを高度に処理しなければいけなかったので、必要でした。今と違いあの当時は「計算機室」といった部屋があり、部屋いっぱいに大きなコンピューターが備え付けられていた時代でした。「コマンド」という命令を打ち込まなければ何もしてくれないコンピューターを相手に必死で勉強しましたが、とはいってもそれを職業にするという方向は考えもつかなかったのです。当時はまだプログラミングができる学生も少なかったので、そんな大きな会社とはいえ、たぶん応募すれば何とかなったのかなと今でも思いますが、その当時はそれを職業にするというのは北海道に来た意味の根幹を揺るがすものとして、選択肢から外れたのでした。
ちなみにあの当時使用していたプログラミング言語はFORTRAN。今では跡形もなくなった言語ですね。もう一つ付け加えると、募集をしていたその会社はつい先日、親会社に吸収されてなくなったそうです。人生、いろんな岐路があり、いろんな結末が待ち受けているのを感じ、20数年前、そちらの道を選択していたら今頃自分は・・・・・と、思いにふけったものでした。
大手のソフトウェア会社のお誘いを蹴ったあと、次に紹介されたのが農協でした。
滋賀県の大中の湖農協といい、ここも今では吸収合併されて近江八幡農協となっているそうです。食に関する会社に勤められたらと考えていた私の食指は、そちらに動きました。話を聞くと滋賀県の農協本社勤務ではなく、大学から1時間程度のところにあるその農協の北海道牧場勤務だと聞いたからです。北海道に残れる。それに、牧場という最前線へもいける。これはいい、と思いました。ただし、牧場といっても乳牛を飼う酪農ではなく、肉牛、しかも「和牛」がメインの牧場でしたが・・・・。
もともと研究室が「肉畜増殖学研究室」というところだったのです。乳牛ではなく、肉牛を研究するところですね。方向的にはそれなりの就職先がきた、といったところでしょうか。ともあれ、卒業と同時に現在の妻と結婚した私は、その農協に就職しました。滋賀県の本社にいたのは1週間程度。新人研修を終えた私はすぐに十勝平野の南、忠類村というところにあるその農協の肉牛牧場での勤務に入ったのでした。
農協職員として100頭の和牛の繁殖を任され、1年が過ぎようとするある日の朝、ふと自分が「サラリーマン化した牧夫」になっている事に気がつきます。確かに牧場という仕事に関わっている割には交代制で休みがあり、遅くとも6時くらいには日々の仕事が終了し、特別な事がない限り残業もない。そんな、いわば贅沢な生活をしている自分に、ふと疑問がわき起こります。これではやっている事は牧場の仕事だけれど、都会のサラリーマンとさしてライフスタイルに代わりはないな・・・・・。

もちろん、定期的な休みがあるので嫁さんと二人でカヤックを担いで川下りにいったり、釣りに行ったり、それなりの「アウトドア」を楽しむ事はできました。なんといってもすんでいるのは北海道。都会に比べるとその気軽さは比ではありません。そのまま、満足していれば良かったのです。そのまま・・・・。しかし、若いというのは安住がいやというのか、何というのか・・・。人生の先が見えたら、嫌になるんですねえ。一度ははじけてみたくなるんです。たとえそれで失敗しようとも悔いを残すよりはいい、と。

失敗の苦さを知ったあとならばそんな気持ちにはならないのでしょうが、男ってそんな事に気がつくのは40〜50代になってからではないですかねえ。逆に言えば40〜50歳の人がいうような事を20代の人が言っているのを見ると、大丈夫か?目が死んでるぜ?もう老後か?と突っ込みたくなる自分ですが・・・。
このままでいいのか?と考えはじめたのには、実はもっと前段の話で、学生時代のある出来事があった事にも起因するんです。
大学4年の頃、実はもう一つの会社に入社を打診されていました。
旭川にある家具会社の社長からのお誘いでした。
大学3年の夏、私はカナダのログビルディングスクールに入校します。
ログハウスの作り方を教えてくれる学校ですね。北海道に憧れをもつようになった理由を前章でもお話ししましたが、そのログスクールは高校生の頃、ボロボロになるまで読みふけったアウトドア雑誌で紹介されていた学校でした。高校生の頃は外国など夢のまた夢。単なる素晴らしい記事でしかありませんでしたが、それも意を決して北海道に渡った事により、ひょっとしたら?という範囲に入ってきたのです。「もうひとつ意を決したら、届く範囲になっちゃったかも」「ここまできたらとことん!」てなわけで、必死にアルバイトをして資金を貯め、カナダへ旅立ったのでした。
カナダでの夢のような2ヶ月間の出来事、また、そのあとヒッチハイクでアメリカ、カリフォルニアまで南下し、ヨセミテ国立公園で過ごしたロッククライミングのお話しは、また別の章で。
B・アラン・マッキー・ログビルディングスクールにて


その頃日本でもログハウスがブームになりかけていましたが、まだカナダまで出かけて本格的な作り方を学ぼうという人は非常にまれでした。私がその学校へ入った以前には、有名なプロスキーヤーの三浦雄一郎さんの弟さんら、数えるほどの日本人しかその学校に入校していませんでした。そのうちの一人が、声をかけて下さった旭川の社長さんだったのです。確か私よりも1年先に卒業したかたでした。
その社長さんが今度日本でも本格的なハンドメイドログハウスを造る会社を作るんだが、君、手伝ってくれないか、と声をかけて下さったのです。ちょうど小樽市で「小樽博覧会」が行われている頃で、その博覧会にカナダから輸入したログハウスを展示してらした関係上、小樽まで足を運びました。展示会場で店番をしながら、夜はその社長とカナダのログハウス関係の本の翻訳をしたのを覚えています。
悩みましたねえ。憧れて憧れて、その延長線上にあったログハウスでしたから。ログビルダー(ログハウスを造る大工さんの事)に自分がなれるなんて・・・・・すごい!。
でも、よ〜〜〜く考えた末、そのお話はお断りしたのです。
理由はこうです。ログビルダーはとても素敵な仕事だ。それはカナダでの2ヶ月を通して、ログハウスにますますのめり込んでいた私の素直な感想です。でも、その人自身の生活はどうだろう。これから日本ではもっとログハウスがブームになる雰囲気なので、全国を飛び回ってログハウスを造って回るような生活なのだろう。ブームにのれるのは間違いない。会社もたぶん成功するだろう。でも、それが、そういった事が自分が北海道に渡ろうとした理由だろうか? たとえばログハウスだけぽつんとあっても、自分が北海道へ渡ろうとした理由は満足させられないだろう。郊外にログハウスを建て、週末だけそこに行って満足する。そんな風なライフスタイルならば、北海道に来なくても都会で生活しながらやれる事だ。北海道にまで行こうと決心したのは自分の生活全部、どっぷりと、ログハウスやアウトドアスポーツの延長線上にある生活に浸る事だ。
ログビルダーになればその一部はかなえられるかも知れない。でも、私は他人のログハウスを造るために北海道に渡ったわけではない。自分自信がそういう生活をするためにきたのだ、と。
農協の牧場に勤めてしばらくたつうち、自分が今まさに、学生時代に避けて通った道にまい戻ってしまっているのでは?と気づきました。
格好だけが牧場生活だ・・・・。中身はサラリーマンじゃないか・・・・
そしてこのままこういった生活を続け、もちろん勤め先の本部は滋賀県にあるわけだから、いずれは農協の本部に呼ばれ・・・・と考えていくうちに、このままでいいのかという気持ちがだんだん大きくなっていきました。扱っているのは牛だけれども、どんなにがんばっていい成績を残しても、待遇や将来にさほど変化が起こるわけでもない。「将来が見渡せてしまう」というのは若者に「このままでいいのか?」という考えをおこさせる一番の動機ですからね、今でも。
考えはじめちゃったわけです。
そう、考えはじめちゃったんです。
ああ・・・・考えちゃったんですねえ・・・・・・・・
先輩にモヒカン刈りにされて、赤ふんどしで女子大に合コンを申し込みに行かされたりとか、とっても楽しいお話はまた別に機会に・・・・。
さて、大学の4年生になるとそろそろ就職先を考えなくてはなりません。今では3年生にもなると就職活動が始まるようですが、私たちの頃はまだのんびりしたものでした。いや、自分だけがのんびりしていたのかも知れないけど・・・。
自分から望む企業もないまま、そのうち教授がどこか紹介してくれるだろうとのんびり構えていた私に、企業の紹介があったのはもう夏も過ぎようとした頃だったと思います。最初は日立ソフトウェアエンジニアリングという会社からのものでした。というのも私の卒論は牛の疾病に関するコンピューターシミュレーションだったので、ひたすらコンピューターの画面とにらめっこしていた姿を教授が見ていたからでしょう。
もちろん私の反応は「え?」でした。
コンピューター自体は卒論を仕上げるため、研究のデータを高度に処理しなければいけなかったので、必要でした。今と違いあの当時は「計算機室」といった部屋があり、部屋いっぱいに大きなコンピューターが備え付けられていた時代でした。「コマンド」という命令を打ち込まなければ何もしてくれないコンピューターを相手に必死で勉強しましたが、とはいってもそれを職業にするという方向は考えもつかなかったのです。当時はまだプログラミングができる学生も少なかったので、そんな大きな会社とはいえ、たぶん応募すれば何とかなったのかなと今でも思いますが、その当時はそれを職業にするというのは北海道に来た意味の根幹を揺るがすものとして、選択肢から外れたのでした。
ちなみにあの当時使用していたプログラミング言語はFORTRAN。今では跡形もなくなった言語ですね。もう一つ付け加えると、募集をしていたその会社はつい先日、親会社に吸収されてなくなったそうです。人生、いろんな岐路があり、いろんな結末が待ち受けているのを感じ、20数年前、そちらの道を選択していたら今頃自分は・・・・・と、思いにふけったものでした。
大手のソフトウェア会社のお誘いを蹴ったあと、次に紹介されたのが農協でした。
滋賀県の大中の湖農協といい、ここも今では吸収合併されて近江八幡農協となっているそうです。食に関する会社に勤められたらと考えていた私の食指は、そちらに動きました。話を聞くと滋賀県の農協本社勤務ではなく、大学から1時間程度のところにあるその農協の北海道牧場勤務だと聞いたからです。北海道に残れる。それに、牧場という最前線へもいける。これはいい、と思いました。ただし、牧場といっても乳牛を飼う酪農ではなく、肉牛、しかも「和牛」がメインの牧場でしたが・・・・。
もともと研究室が「肉畜増殖学研究室」というところだったのです。乳牛ではなく、肉牛を研究するところですね。方向的にはそれなりの就職先がきた、といったところでしょうか。ともあれ、卒業と同時に現在の妻と結婚した私は、その農協に就職しました。滋賀県の本社にいたのは1週間程度。新人研修を終えた私はすぐに十勝平野の南、忠類村というところにあるその農協の肉牛牧場での勤務に入ったのでした。
農協職員として100頭の和牛の繁殖を任され、1年が過ぎようとするある日の朝、ふと自分が「サラリーマン化した牧夫」になっている事に気がつきます。確かに牧場という仕事に関わっている割には交代制で休みがあり、遅くとも6時くらいには日々の仕事が終了し、特別な事がない限り残業もない。そんな、いわば贅沢な生活をしている自分に、ふと疑問がわき起こります。これではやっている事は牧場の仕事だけれど、都会のサラリーマンとさしてライフスタイルに代わりはないな・・・・・。

もちろん、定期的な休みがあるので嫁さんと二人でカヤックを担いで川下りにいったり、釣りに行ったり、それなりの「アウトドア」を楽しむ事はできました。なんといってもすんでいるのは北海道。都会に比べるとその気軽さは比ではありません。そのまま、満足していれば良かったのです。そのまま・・・・。しかし、若いというのは安住がいやというのか、何というのか・・・。人生の先が見えたら、嫌になるんですねえ。一度ははじけてみたくなるんです。たとえそれで失敗しようとも悔いを残すよりはいい、と。

失敗の苦さを知ったあとならばそんな気持ちにはならないのでしょうが、男ってそんな事に気がつくのは40〜50代になってからではないですかねえ。逆に言えば40〜50歳の人がいうような事を20代の人が言っているのを見ると、大丈夫か?目が死んでるぜ?もう老後か?と突っ込みたくなる自分ですが・・・。
このままでいいのか?と考えはじめたのには、実はもっと前段の話で、学生時代のある出来事があった事にも起因するんです。
大学4年の頃、実はもう一つの会社に入社を打診されていました。
旭川にある家具会社の社長からのお誘いでした。
大学3年の夏、私はカナダのログビルディングスクールに入校します。
ログハウスの作り方を教えてくれる学校ですね。北海道に憧れをもつようになった理由を前章でもお話ししましたが、そのログスクールは高校生の頃、ボロボロになるまで読みふけったアウトドア雑誌で紹介されていた学校でした。高校生の頃は外国など夢のまた夢。単なる素晴らしい記事でしかありませんでしたが、それも意を決して北海道に渡った事により、ひょっとしたら?という範囲に入ってきたのです。「もうひとつ意を決したら、届く範囲になっちゃったかも」「ここまできたらとことん!」てなわけで、必死にアルバイトをして資金を貯め、カナダへ旅立ったのでした。
カナダでの夢のような2ヶ月間の出来事、また、そのあとヒッチハイクでアメリカ、カリフォルニアまで南下し、ヨセミテ国立公園で過ごしたロッククライミングのお話しは、また別の章で。
B・アラン・マッキー・ログビルディングスクールにて


その頃日本でもログハウスがブームになりかけていましたが、まだカナダまで出かけて本格的な作り方を学ぼうという人は非常にまれでした。私がその学校へ入った以前には、有名なプロスキーヤーの三浦雄一郎さんの弟さんら、数えるほどの日本人しかその学校に入校していませんでした。そのうちの一人が、声をかけて下さった旭川の社長さんだったのです。確か私よりも1年先に卒業したかたでした。
その社長さんが今度日本でも本格的なハンドメイドログハウスを造る会社を作るんだが、君、手伝ってくれないか、と声をかけて下さったのです。ちょうど小樽市で「小樽博覧会」が行われている頃で、その博覧会にカナダから輸入したログハウスを展示してらした関係上、小樽まで足を運びました。展示会場で店番をしながら、夜はその社長とカナダのログハウス関係の本の翻訳をしたのを覚えています。
悩みましたねえ。憧れて憧れて、その延長線上にあったログハウスでしたから。ログビルダー(ログハウスを造る大工さんの事)に自分がなれるなんて・・・・・すごい!。
でも、よ〜〜〜く考えた末、そのお話はお断りしたのです。
理由はこうです。ログビルダーはとても素敵な仕事だ。それはカナダでの2ヶ月を通して、ログハウスにますますのめり込んでいた私の素直な感想です。でも、その人自身の生活はどうだろう。これから日本ではもっとログハウスがブームになる雰囲気なので、全国を飛び回ってログハウスを造って回るような生活なのだろう。ブームにのれるのは間違いない。会社もたぶん成功するだろう。でも、それが、そういった事が自分が北海道に渡ろうとした理由だろうか? たとえばログハウスだけぽつんとあっても、自分が北海道へ渡ろうとした理由は満足させられないだろう。郊外にログハウスを建て、週末だけそこに行って満足する。そんな風なライフスタイルならば、北海道に来なくても都会で生活しながらやれる事だ。北海道にまで行こうと決心したのは自分の生活全部、どっぷりと、ログハウスやアウトドアスポーツの延長線上にある生活に浸る事だ。
ログビルダーになればその一部はかなえられるかも知れない。でも、私は他人のログハウスを造るために北海道に渡ったわけではない。自分自信がそういう生活をするためにきたのだ、と。
農協の牧場に勤めてしばらくたつうち、自分が今まさに、学生時代に避けて通った道にまい戻ってしまっているのでは?と気づきました。
格好だけが牧場生活だ・・・・。中身はサラリーマンじゃないか・・・・
そしてこのままこういった生活を続け、もちろん勤め先の本部は滋賀県にあるわけだから、いずれは農協の本部に呼ばれ・・・・と考えていくうちに、このままでいいのかという気持ちがだんだん大きくなっていきました。扱っているのは牛だけれども、どんなにがんばっていい成績を残しても、待遇や将来にさほど変化が起こるわけでもない。「将来が見渡せてしまう」というのは若者に「このままでいいのか?」という考えをおこさせる一番の動機ですからね、今でも。
考えはじめちゃったわけです。
そう、考えはじめちゃったんです。
ああ・・・・考えちゃったんですねえ・・・・・・・・
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