--.--.-- Ads by Google
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
2009.09.13 転機
広畜産大学で過ごした4年間は、あまりにいろいろな事がありすぎて、またおいおいご紹介していく事にしましょう。それはそれは濃厚な4年間だったので。
先輩にモヒカン刈りにされて、赤ふんどしで女子大に合コンを申し込みに行かされたりとか、とっても楽しいお話はまた別に機会に・・・・。

さて、大学の4年生になるとそろそろ就職先を考えなくてはなりません。今では3年生にもなると就職活動が始まるようですが、私たちの頃はまだのんびりしたものでした。いや、自分だけがのんびりしていたのかも知れないけど・・・。

自分から望む企業もないまま、そのうち教授がどこか紹介してくれるだろうとのんびり構えていた私に、企業の紹介があったのはもう夏も過ぎようとした頃だったと思います。最初は日立ソフトウェアエンジニアリングという会社からのものでした。というのも私の卒論は牛の疾病に関するコンピューターシミュレーションだったので、ひたすらコンピューターの画面とにらめっこしていた姿を教授が見ていたからでしょう。

もちろん私の反応は「え?」でした。
コンピューター自体は卒論を仕上げるため、研究のデータを高度に処理しなければいけなかったので、必要でした。今と違いあの当時は「計算機室」といった部屋があり、部屋いっぱいに大きなコンピューターが備え付けられていた時代でした。「コマンド」という命令を打ち込まなければ何もしてくれないコンピューターを相手に必死で勉強しましたが、とはいってもそれを職業にするという方向は考えもつかなかったのです。当時はまだプログラミングができる学生も少なかったので、そんな大きな会社とはいえ、たぶん応募すれば何とかなったのかなと今でも思いますが、その当時はそれを職業にするというのは北海道に来た意味の根幹を揺るがすものとして、選択肢から外れたのでした。

ちなみにあの当時使用していたプログラミング言語はFORTRAN。今では跡形もなくなった言語ですね。もう一つ付け加えると、募集をしていたその会社はつい先日、親会社に吸収されてなくなったそうです。人生、いろんな岐路があり、いろんな結末が待ち受けているのを感じ、20数年前、そちらの道を選択していたら今頃自分は・・・・・と、思いにふけったものでした。

大手のソフトウェア会社のお誘いを蹴ったあと、次に紹介されたのが農協でした。
滋賀県の大中の湖農協といい、ここも今では吸収合併されて近江八幡農協となっているそうです。食に関する会社に勤められたらと考えていた私の食指は、そちらに動きました。話を聞くと滋賀県の農協本社勤務ではなく、大学から1時間程度のところにあるその農協の北海道牧場勤務だと聞いたからです。北海道に残れる。それに、牧場という最前線へもいける。これはいい、と思いました。ただし、牧場といっても乳牛を飼う酪農ではなく、肉牛、しかも「和牛」がメインの牧場でしたが・・・・。

もともと研究室が「肉畜増殖学研究室」というところだったのです。乳牛ではなく、肉牛を研究するところですね。方向的にはそれなりの就職先がきた、といったところでしょうか。ともあれ、卒業と同時に現在の妻と結婚した私は、その農協に就職しました。滋賀県の本社にいたのは1週間程度。新人研修を終えた私はすぐに十勝平野の南、忠類村というところにあるその農協の肉牛牧場での勤務に入ったのでした。


農協職員として100頭の和牛の繁殖を任され、1年が過ぎようとするある日の朝、ふと自分が「サラリーマン化した牧夫」になっている事に気がつきます。確かに牧場という仕事に関わっている割には交代制で休みがあり、遅くとも6時くらいには日々の仕事が終了し、特別な事がない限り残業もない。そんな、いわば贅沢な生活をしている自分に、ふと疑問がわき起こります。これではやっている事は牧場の仕事だけれど、都会のサラリーマンとさしてライフスタイルに代わりはないな・・・・・。

img002.jpg


もちろん、定期的な休みがあるので嫁さんと二人でカヤックを担いで川下りにいったり、釣りに行ったり、それなりの「アウトドア」を楽しむ事はできました。なんといってもすんでいるのは北海道。都会に比べるとその気軽さは比ではありません。そのまま、満足していれば良かったのです。そのまま・・・・。しかし、若いというのは安住がいやというのか、何というのか・・・。人生の先が見えたら、嫌になるんですねえ。一度ははじけてみたくなるんです。たとえそれで失敗しようとも悔いを残すよりはいい、と。

img121.jpg

失敗の苦さを知ったあとならばそんな気持ちにはならないのでしょうが、男ってそんな事に気がつくのは40〜50代になってからではないですかねえ。逆に言えば40〜50歳の人がいうような事を20代の人が言っているのを見ると、大丈夫か?目が死んでるぜ?もう老後か?と突っ込みたくなる自分ですが・・・。



このままでいいのか?と考えはじめたのには、実はもっと前段の話で、学生時代のある出来事があった事にも起因するんです。

大学4年の頃、実はもう一つの会社に入社を打診されていました。
旭川にある家具会社の社長からのお誘いでした。
大学3年の夏、私はカナダのログビルディングスクールに入校します。
ログハウスの作り方を教えてくれる学校ですね。北海道に憧れをもつようになった理由を前章でもお話ししましたが、そのログスクールは高校生の頃、ボロボロになるまで読みふけったアウトドア雑誌で紹介されていた学校でした。高校生の頃は外国など夢のまた夢。単なる素晴らしい記事でしかありませんでしたが、それも意を決して北海道に渡った事により、ひょっとしたら?という範囲に入ってきたのです。「もうひとつ意を決したら、届く範囲になっちゃったかも」「ここまできたらとことん!」てなわけで、必死にアルバイトをして資金を貯め、カナダへ旅立ったのでした。
カナダでの夢のような2ヶ月間の出来事、また、そのあとヒッチハイクでアメリカ、カリフォルニアまで南下し、ヨセミテ国立公園で過ごしたロッククライミングのお話しは、また別の章で。


B・アラン・マッキー・ログビルディングスクールにて
ログスクール1


ログスクール2

その頃日本でもログハウスがブームになりかけていましたが、まだカナダまで出かけて本格的な作り方を学ぼうという人は非常にまれでした。私がその学校へ入った以前には、有名なプロスキーヤーの三浦雄一郎さんの弟さんら、数えるほどの日本人しかその学校に入校していませんでした。そのうちの一人が、声をかけて下さった旭川の社長さんだったのです。確か私よりも1年先に卒業したかたでした。

その社長さんが今度日本でも本格的なハンドメイドログハウスを造る会社を作るんだが、君、手伝ってくれないか、と声をかけて下さったのです。ちょうど小樽市で「小樽博覧会」が行われている頃で、その博覧会にカナダから輸入したログハウスを展示してらした関係上、小樽まで足を運びました。展示会場で店番をしながら、夜はその社長とカナダのログハウス関係の本の翻訳をしたのを覚えています。

悩みましたねえ。憧れて憧れて、その延長線上にあったログハウスでしたから。ログビルダー(ログハウスを造る大工さんの事)に自分がなれるなんて・・・・・すごい!。

でも、よ〜〜〜く考えた末、そのお話はお断りしたのです。
理由はこうです。ログビルダーはとても素敵な仕事だ。それはカナダでの2ヶ月を通して、ログハウスにますますのめり込んでいた私の素直な感想です。でも、その人自身の生活はどうだろう。これから日本ではもっとログハウスがブームになる雰囲気なので、全国を飛び回ってログハウスを造って回るような生活なのだろう。ブームにのれるのは間違いない。会社もたぶん成功するだろう。でも、それが、そういった事が自分が北海道に渡ろうとした理由だろうか? たとえばログハウスだけぽつんとあっても、自分が北海道へ渡ろうとした理由は満足させられないだろう。郊外にログハウスを建て、週末だけそこに行って満足する。そんな風なライフスタイルならば、北海道に来なくても都会で生活しながらやれる事だ。北海道にまで行こうと決心したのは自分の生活全部、どっぷりと、ログハウスやアウトドアスポーツの延長線上にある生活に浸る事だ。
ログビルダーになればその一部はかなえられるかも知れない。でも、私は他人のログハウスを造るために北海道に渡ったわけではない。自分自信がそういう生活をするためにきたのだ、と。


農協の牧場に勤めてしばらくたつうち、自分が今まさに、学生時代に避けて通った道にまい戻ってしまっているのでは?と気づきました。
格好だけが牧場生活だ・・・・。中身はサラリーマンじゃないか・・・・

そしてこのままこういった生活を続け、もちろん勤め先の本部は滋賀県にあるわけだから、いずれは農協の本部に呼ばれ・・・・と考えていくうちに、このままでいいのかという気持ちがだんだん大きくなっていきました。扱っているのは牛だけれども、どんなにがんばっていい成績を残しても、待遇や将来にさほど変化が起こるわけでもない。「将来が見渡せてしまう」というのは若者に「このままでいいのか?」という考えをおこさせる一番の動機ですからね、今でも。

考えはじめちゃったわけです。

そう、考えはじめちゃったんです。

ああ・・・・考えちゃったんですねえ・・・・・・・・